空想雑貨の本・エッセー


★「身体の未来」(出版社:トレヴィル・1998年)に「浅草玩之助の身体論」掲載。小谷真理さんほか。
ガンタマ<浅草の玩具の魂> 怪獣玩具の冒険 身体の未来<共著>
骨董魔術論 ユートピアの期限(慶應大講義) -
エッセー おもちゃと茶の道<読売新聞文化欄> 玩具風流縁起 朦朧体カネゴン<雑誌ユリイカ>
広告 月刊ホビージャパン
<1989年1月から1999年12月>
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僕はおもちゃの最初の本に「魂」の名前を入れた。
それが玩具屋としての第一歩だと思った。
●ガンタマ制作秘話

なんといっても楽しくうれしかったのは、
谷岡ヤスジさんとの出会いでした。

「鼻血ブー」や「アサッー」という
パンクでアナキーなマンガが登場したのは、
なんと万博の年1970年。
それからもへんな牛やニヒルな犬、
ぼろきれをきた聖者のような人物ペタシがでてきて、
俺は地球へ行水をつかりに来たといわんばかりの
そこぬけの達観でウルトラ暴れ回っておりました。

「玩具の魂」を縮めて「ガンタマ」という書名が浮かんだ時、
まっさきにこのハードな書名と匹敵する絵師でした。
どこかに谷岡さんの「やんちゃぶり」がひっついていたのです。

表紙の絵を書いてもらおうと思って
「谷岡流の気合いをお願いします」とひとこといったら、
即了解でした。

それで打ち合わせに谷岡邸を訪ねる時、
僕とブックデザイナーは谷岡ヤスジの絵のついた
海水浴用ビニールバッグをぶらさげ、
しかも中に鼻血ブーのガキ夫人形まで忍ばせて、
さっそうとのりこみました。驚かせようと思って。

ところが敵もさるもの、
「ちょっと待って面白いもの持ってくる」
といってなんと大事そうになにか抱えて来るではありませんか。
「先生こっちも面白いものが」で12の3で
テーブルの上にはなんとなんとガキ夫君人形がはち合わせ!!!

そして帰り際、椅子から立ち上がろうとした瞬間、
谷岡さんはいいました。

「いいものつくろうね」とやさしくズシリ。



(………1999年6月14日漫画家谷岡ヤスジ死去。
………こうしてガンタマは谷岡さんの想い出と共に僕の永遠の想い出となった。)
当日の世紀末ガンタマ日記悲しき六月

実に谷岡ヤスジさんは、これ以来、空想雑貨の名誉顧問であります。

題名:ガンタマ

出版社:星雲社(発売)、東西企画(発行)
1996年5月5日発行
著者:神谷僚一
イラスト:谷岡ヤスジ(パラパラまんが付)
エディトリアル・デザイン:西山孝司・小林千鶴(工作舎)
帯コピー:おもちゃは心のオマケだ!
怪獣人形ナメゴンがあたる抽選つき
\1890(税込み)
1996年の日記を見ていたら、
谷岡さんのことが何カ所かに出ていた。
5月12日(日)の日記には
谷岡さんから電話があり、ガンタマに関する
会話のメモが残っている。
「頑固者ふたりが作ったんだから、いーに決まってる!」
「いい本だ、しっかり儲けなさい」


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僕が怪獣玩具を美しいと言ったのは
おもちゃメーカーの生き様も美しかったからだ。
●怪獣玩具の冒険制作秘話
怪獣の写真集を長い間なぜ出さなかったのかという答えが、
この本にはあるはずだ。

正方形という版型も以前から一度だしてみたかった大きさだ。
カメラを担当してもらった小林さんについては、
あえてプロフィールは語らない。
現代美術家だということを気にしてもらえればいい。

カタログやマニュアル本の氾濫する中で
そうではないものを本にできたことを
とても感謝しているし
とても誇りに思っている。

最初は新人のカメラマンを起用して
白黒の怪獣玩具写真集だった。
あおりを多用して撮影してもらうつもりだった。
ところが急遽変更してカメラマンを探すことになったとき、
僕に浮かんだのは、小林さんだった。

内諾を得て彼の家へ飛んでいったとき、
テーブルの上に広がっていたのは、
信じられない数のカメラの特殊レンズだった。

題名:怪獣玩具の冒険

1997年5月14日発行
著者:神谷僚一
撮影:小林健二
装幀:西山孝司
発行:フィルムアート社
マルサン商品広告資料。マルサン社名変更告知。
怪獣ブームの週刊誌記事付き
巻頭引用:Rマキャモン、ブラッドベリ
序文:いつまでもいつまでも夕焼け空のように美しい怪獣玩具の話をしていよう
帯コピー:1966年のおもちゃウォーズ
\2415(税込み)


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読売新聞文化欄に載せたエッセー●
『おもちゃと茶の道』
(1997年11月27日読売新聞夕刊)

「空想」という屋号を名乗る骨董玩具屋の僕の店には、

1960年代のおもちゃ黄金時代の空気と精神が、

充満しています。

店の棚を大きく占領しているのは、

かって一世を風靡したゴジラやガラモンなどの怪獣玩具です。

 廃業してしまった店まで訪ねるなど、

千以上の店をまわり千以上の人から昔話を聞いて、

少しずつおもちゃを集めてきたせいか、

ことのほか「おもちゃの声」には、敏感です。

栄枯盛衰の人生ドラマを含むおじちゃんや

おばちゃんの声を聞きすぎたせいか、

僕にはおもちゃを単なるバーコード的な商品として扱うことができません……。

 歴史的には江戸時代から、おもちゃは浅草とともに生きてきました。

浅草寺の参拝時のお土産品として、

あるいは蔵前の旦那衆の手なぐさみとして、誕生したともいわれています。

戦前戦後は輸出の花形として隆盛をきわめました。

おもちゃの職人、下請け工場、そればかりかおもちゃの箱の印刷屋までもが

下町に配置されていました。

ブリキ、セルロイド、ソフトビニール、プラモデル、ブロマイド、メンコまで

あらゆる種類の立体物から紙製玩具までが、作られ、

蔵前の問屋街で売られ、日本中へ送り出されてきました。

 浅草人の「新し物好きで見栄っ張り」の気質が、

おもちゃを発展させた要素と重なったようです。

 この職人からメーカーまでの汗と涙と夢

というバックグラウンドを見過ごしては、

おもちゃは語れません。

 工業製品でありながら手作りの良さをかろうじて残していた1960年代末期、

浅草のマルサン商店から怪獣のソフトビニール人形が発売されました。

悪役を商品化したこと、

着色済みの皮膚感を演出したことも画期的だったのですが、

実ははるかに革新的なメッセージが隠されていたのでした。

おもちゃの歴史の中でも、

ブリキやセルロイドでは材質上できにくかった技法です。 

 一言で表すなら「シンメトリーを壊す」という企みでした。

茶で例えるなら、

古田織部のような「歪み」をおもちゃに導入する事件でした。

 初期に作られた怪獣たちは、

けっして綺麗一辺倒には作られませんでした。

手にした子供たちですら、一瞬ためらうほど、

「似ていない」怪獣もありました。

問屋すじに「グロテスク」と酷評されたこともありました。

 外側の綺麗より、

子供に想像する余地を残す

内側の相似を目指した造形を、

僕は「やんちゃ造形」と翻訳しています。

 僕の見立ては、

美に至る最良のナビシステム「茶」を参考にすることが多い。

岡倉天心は「茶の本」の中で、

東洋の美をアンシンメトリーだと断定し、

均斉は想像力の清新を破壊すると述べ、

床の間の花瓶はそのために中央にはおかないようにするのだと看破しています。

 現代の美の鑑賞は、

流行や上辺の世間的資産価値が基準のようですが、

これは驚くことではありません。

残念ながら茶の世界でも昔からそうでした。

大名物を持っている茶人が、一流扱いされていました。

どの時代でも、蔵書家は必ずしも愛書家ではないようです。

 茶の世界では、「数寄者」という免許皆伝者を育成し、健全な発展を意図してきました。

 茶聖利休はどう対処したのかと見れば、

「一物モ持タズ、胸ノ覚悟一」との言葉を残しています。

天心は「真の美はただ完全を心の中に完成する人によって見いだされる」と結論づけています。

 僕らは耳によってではなく、

高価なものより高雅なものを求め、

物よりも心を愛し、

夢を買い、

職人技の冴え

にいつまでも見入っていたいものです。

 おもちゃもまたある種のお茶なのです。

 さあ、おもちゃという宇宙の午後に味わう浅草製の贅沢なお茶を、あなたもいかがですか。
この欄の横は、皮肉にも山一証券の倒産をめぐる記事でした。
小林健二さん撮影のカネゴンの写真も載せました。
新聞社のつけた小見出しは
「高価より高雅 物より心」というものでした。
文化欄というきわめて公共性の高い場所に
<われらがアンティークトイ>の美学と哲学を発表するということで
書き方には相当気をつかいました。
世間に対して「怪獣玩具」の評価を問うとき
その根拠として
当時研究していた茶の本の著者大美術家「岡倉天心」を初めて採用しました。
<マルサン>が活字になったのは、
いったい何年ぶりだったのでしょう。




玩具風流縁起● 神谷僚一 (1999年3月24日)


玩具発生の回路を探ると、

「風流」というキーワードにたどりつく。

「いきの構造」で知られる九鬼周造による定義は、

風流とは道徳的離俗的精神である。

「粋」と「いなせ」の同時所有を、この小道具は内に秘めている。 

玩具の定義を広角にもてば、人類史と共にあるのだが、

商品ということに立つと、どうやら江戸時代になる。

最初の玩具ははっきりしない。 

確かなことは、

江戸蔵前の商人が発端となったという事実があるのみである。 

蔵前の商人は江戸文化の象徴で、「剛毅で自由な性質」。

つまり旦那ぶりを一手に引き受けることとなった。 

それ故、「何か面白いものを一つ」という経由で、

職人に「おもちゃ」を作らせることとなる。 

浅草の玄関「蔵前」に玩具が誕生したことが、

後の時代の礎を築いたのである。 

すなわち玩具業界というものの階層が、

旦那という「製造問屋」を頂点とし、

職人たち「メーカー」の作ったものを、

旦那の名前で売りさばく構造である。

この「旦那主義」ともいえる安全なシステムこそ、

玩具発展の本質的な理由だった。 

これに加えて「浅草」という場所の特殊性がある。

浅草寺の観音様にお参りする人たちが知る由もないが、

浅草は古来より坂東の都であり、

飛鳥時代にはもう既に確立されていた。

京都が「深草」と喩えられるのに対し、

「浅草」なる地名でこの地が存在表明していったことは、

あまり知られていないことだが。 

大陸伝来の冶金技術集団「檜熊氏」(ひのくま)が

浅草観音像発見者「漁師の檜前兄弟」伝説へとすり替わっていったことも、

まだ知る人はあまりいない。 

やがて観音参りの土産品として、民芸品、玩具類が売られ、

人気を博していったのも当然であった。 

玩具王国として一大発展を遂げたのも、

浅草という「坂東の聖なる場所性」、

その浅草の心意気ともいえる「蔵前の侠気」、

さらに浅草が本来抱えていた「金属信仰」という遺伝子が

何にもまして複雑に絡み合い、

セルロイドやメンコの枝を張り、

やがて世界にも類を見ない大いなるブリキの森を形作っていったのだ。

江戸が没落して明治に変わる頃、

幕府お抱え絵師狩野芳崖は荒物屋を営んで糊口を凌ぎ、

後に岡倉天心に見いだされ「悲母観音」などの名作を手がけた。

江戸的なるものは全て駆逐されようとした。

茶道しかり、あらゆる職人しかり。 

その中でも江戸下町の祭りの御輿造りの飾り職人などは、典型であった。 

西洋化というグローバルスタンダードの前で、職業的運命は風前の灯火に思えたとき、

彼らは古い技術を新しい容器に盛る決断をした。 

それがブリキ玩具の開発である。

金属細工に手慣れた飾り職人の繊細な技術なしには、

玩具は前進できなかったのである。 

商品があるから商売が成り立つわけではなかった。

環境があってはじめて商業が成り立つ。

玩具はいわば「浅草玩具生命体」という有機的な土壌があって成立した永い永い物語りであった。

このうちどのパーツが欠けても、完成しないのは、明白である。

そしてブリキ玩具に最初に絵を印刷した男は、

やはり坂東の少年ヒーロー「金太郎」の名を持つ男(本所の人・岡田金太郎氏)であったのも、

玩具の出自を暗示して止まない出来事だ。

忘れるわけにはいかないだろう。
(掲載:JAPAN NOW。特集ジャパニーズ・エンターテイメント。
4ページオールカラー。
三代玩具メーカーあの米澤商会の米澤滋氏も写真提供をしている。
全国有名ホテルの常備雑誌。
浅草では浅草ビューホテルにあります。)





■朦朧体カネゴン  ■神谷僚一 (雑誌ユリイカ1999年5月号掲載・青土社) 


おそらく僕が世界でいちばん多く「怪獣」を売買してきた。

つまり、怪獣の秘密に近い場所にいる。 

昭和の終わりから、1966年に製造された「マルサン商店」製の
ウルトラQやウルトラマン、ウルトラセブン
にこだわって取り扱ってきたので、
たぶん千体以上のソフトビニールの怪獣玩具と一期一会を繰り返してきた。 

映画やテレビの怪獣を一般化したのは、わずか25センチほどの「怪獣玩具」だった。 

そのポイントは、単純化された想像力の集結にある。

●造作は左右対称ではない(表現特徴1)

●全体に歪みがある(表現特徴2)

●中は中空である(素材特徴)

●初期基本色は暗い紺色(設定1)

●初期商品重量は約160グラム(設定2)

●初期金型原型は瀬戸焼職人(製作者1)

●ウルトラマン以降の金型制作者は芸大彫刻科出身のシュールレアリスト(製作者2)  

これらの要素に、戦後最高最良の冒険する玩具メーカーとして「マルサン商店」。

ウルトラマンなどの怪獣デザイン設定者として「成田亨」の才能。

また「ダダ」、「ブルトン」という怪獣名は、
シュールレアリズム宣言の翻訳者「巌谷國士」が名付け親であることを直接本人の口から聞いている。 

まさに連関するシーンコミュニケーションとしての商い全体が、
「怪獣」を支え、叫び声を日本中に広げた理由であった。

個別化され断片化された個々の闘いではなく、あらゆるシーンにおける破壊と闘争であった。 

例えば、こういうこと。

子供と両親には買う買わないの闘争。

経済においては玩具業界のNO1を決める闘争。

玩具職人の世界においては、「大胆」を採るか採らざるかの。 

現在の怪獣玩具の表現が、
図面や設計図を立体的にトレースする一方向しか持たないのに対して、
マルサン商店の怪獣玩具は既に多面性を持っていた。

今や有名になりすぎたキューピー人形的幼児体型デフォルメだけではなく、
プラモデルや煙を吐くブリキの怪獣玩具などで、リアルさの方向性を併せ持っていた。

豆電球を光らせるために目をくり抜いた成型色茶色の地底怪獣バラゴンなどは、
リモコンで動くたびに恐ろしげな雄叫びをあげているようである。 

注意すべきは、皮膚や棘をそのまま処理するのではなく、
あくまで玩具会社が主導権をもち、
スクリーンのコピーとしての玩具を否定した点である。

感情移入の誘い水であった。 

それはあたかも、すべてを成功させない精巧力にかけた
江戸時代のからくり「弓射り人形」を彷彿とさせる。 

のちに東芝を創立することになる「からくり儀右衛門」のこの人形は、
2メートル先の的に向かって矢を放つ。驚くべきはその的中率にある。 

百発百中でないことが驚異なのだ。

あえて的にすべての矢を的中させないような高度な設計思想に貫かれていた。 

「リアル」にしないことによる「高度なリアルさの表象」というおもちゃ本来の想像力と同根の思想がある。

いや、からくりこそ玩具のルーツなのだろう。 

すべて表現しきらないことにおいて、芸術品としての命の花を満開に咲かせる手法といおうか。

あたかもあの自在の人、遠い彼方の中国の自由思想家老子的(注1)想像力というべきか。 

明治の日本画家・菱田春草らが開拓した線を使わない雰囲気重視の絵画技法、
「空気を描こうとした」朦朧体(もうろうたい)絵画をも思い出す。 

怪獣玩具も表面よりも雰囲気重視という点で、
「おもちゃの朦朧体」とでも呼んだほうが的を得ているかも知れぬ。

そこには当然のことながら、平成の商品以上に細部にこだわる技術表現が可能であった。

子供の空想力に委ね信頼するおもちゃの伝統的背景があった。 

リアルさがぬめぬめ皮膚観一辺倒になって、
露出的醜悪なアメリカ的エイリアンないしはクリーチャ化することにより、
平成怪獣映画も玩具も衰退したことを、観よ。 

怪獣に対する分断と限定が商品化されているだけだ。

根底には数あわせとしての怪獣しか存在しない。 

怪獣の世界は常に世界のリアルさを巡る試行錯誤で、

怪獣玩具とは

表現特徴としては

織部焼(注2)と同質の昭和40年代バロック。

同時代性としては

それはロックミュージシャン・ニール・ヤング(注3)
のディストーション(叫び声)のような成分を内包する。

方向としては

あたかも自由さと粋を生命とする老子のような郷愁なのである。

生息条件としては

限定と独占を好まない生き物である。

付帯的価値としては

製造会社や所有者にも黄昏を含む商品であると。 

但しそれを嗅ぎ分けるには
最低千体入手の実体験か
大いなる鑑賞の呼吸を会得していないと困難であろう。 

いずれにせよ怪獣に興味があろうとなかろうと、
テレビ番組「ウルトラQ」の暗喩を思い出さずにはいられないだろう。 

「カネゴン」のあらすじは、子供たちのフリーマーケットで不思議な繭を手にした加根田金男くんが
お金を食べ続けないと餓死してしまうコイン怪獣カネゴンに変身してしまい、
なんとか再び人間に戻り家に帰り、大団円と思いきやさにあらず、
両親がカネゴンになっている落ちで終わっている。 

帰宅したら家族がカネゴンになっていることを目にした少年たちは、
今や世紀末になってテレビの外側で目撃した自分たちにも
同じ運命がどうやらやって来たらしいことを悟らざるを得ないのである。 

カネゴンとは他者のことではなかった。

自他の境界線のない朦朧体としての「片割れ」としての「我」に他ならなかった。

……ついに素晴らしい時代がやってきた。

嘆く前にわれわれは覚悟を決めるべきだろう。

われわれは消費文明の終わりとして

使い古され何度も人間の都合で再生された「怪獣」ではなく、

今や我々自身が良くも悪くも「怪獣」であることを自覚し、

「始まりとしての怪獣」を創造し選ぶことができるチャンスを与えられたのであると。



注1:道教の聖典「荘子」の書き出しは、北の果てに巨大な魚がいて、ある日鳥になったと始まる。
「茶」とは道教のおもちゃ。

注2:広い意味で瀬戸焼。大茶人・古田織部のような「大振り」で、表現形態としては「歪み」を多用する。
なおバロックとは歪んだ真珠の意味。

注3:激しさと優しさを過剰品質に表現できるミュージャン。
ライク・ア・ハリケーン(嵐のように)とヘルプレスが代表曲。 



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