◆◆◆◆◆骨董魔術論◆◆◆◆◆

■ ブ ル ト ン と ブ ル ト ン   

シュールレアリズム*1よりは、ダダイズム。アンドレ・ブルトンの名は知っていても、僕はトリスタン・ツアラびいきだった。 
シュールレアリズムの噂を初めて耳にしたのは、僕の疾風怒涛時代の十六の時、新宿のロック喫茶「ソールイート」で知り合った二歳年上の早稲田*2の菅原YOUくんからだった。 
1960年代末期、ロンドンの音楽シーンはローリングストーンズを長男とすれば、三人のアンダーグラウンドな兄弟たちが後に控えていた。 
一人目は、発狂したシド・バレットのいたピンク・フロイドであり、二人目はヒッピーカルチャーの優しい衣をまとった無国籍音楽派のインクレティブル・ストリングス・バンド。そして三人目が怪獣の名前を借りたティラノザウルス・レックスだった。
「ライド・ア・ホワイトスワン」が深夜放送のラジオでかかりはじめ、YOUはティラノのアルバム「ベアード・オブ・スターズ」を片手に抱え、僕は青いロングコートにロングブーツでもちろん長髪で、ケルトの吟遊詩人のように二人で女子美の学園祭を歩き回っていた。 
そして気付くと「ゲット・イット・オン」の大ヒットであり、ティラノはT・REXと改名し、音楽もエレクトリック・ブギー一本槍となり、民族衣裳からサテンのステージ衣裳へと変わり、真夜中ユニコーンと遊ぶのをやめるかわりに、たくさんの金貨とたくさんのグルーピーとたくさんのヒット曲を残した。 
シンクロするかのようにYOUは、もちろんブルトンから借用して「通底器」、つぎに「エレクトリック・モス」という名前の耽美的なバンドをつくり、ある時から「紅蜥蜴」と名乗り自らも「モモヨ」と改名し、アンダーグラウンド・ロックシーンに君臨し、パンク/ニューウエイブ台頭期の1980年頃の東京ロックシーンでは、「リザード」という名の決定的な革命戦士であった。 
そして最後の消息をきいたのが、僕が福生のピンク色の家に住んでいた時のこと。 
わが文学の師、稲垣足穂と同じ運命星「一白水星」を持つ僕の誕生日の次の日、1980年12月8日。 ラジオからは、ニューヨークの自宅前でジョン・レノンが射殺されたニュースが流れた。 
だが僕にはそれが、悲しいのではなかった。 
もう一つ流れたニュースは、たしかに僕は聞いたような気がするのだが、(実際は一ヵ月前のようだ)YOUが薬物不法所持容疑で逮捕されたニュースだった。
水俣の公害問題を扱ったり、韓国光州事件抗議イベントに参加したりしたことで、目を付けられていたようだ。 
誰もがディランの子供であったあの時代、彼がシュールから音楽へ進んだのなら、僕は彼によってシュールの第一ページをめくり、音楽へは進まずやがて足穂を知りダダを研究した。
つい最近までシュールレアリズム宣言もブルトンも読む気がしなかったのは、文学政治屋ブルトンを毛嫌いしたこともあるが、僕等の十代が家出と放蕩と勘当を含む十代で、すでに本以上の本であり、どんな作家も描くことのできないシュールレアリズム作品であり、すでに生は別のところにあったことも知りぬいていたから。 
T・REXの没落の原因も彼の退廃も予測されたこととはいえ、どうにも止めようがない人生を賭けた強烈なシュールレアリズムだったから、今さらブルトンでもあるまいと……。 
パルコがまだない吉祥寺に住んでいた僕は二十歳で、家出状態のまま福島雲子と暮らしていて、ほぼ毎日東京タワーや自動販売機を主人公にした電気の欠片のようなファンタジーを書いていて、一週間に一度くらいの割合で、工作舎に通って見てもらっていた。 
その帰りに必ず寄っていたのが、「まりの・るうにい」さん*3のところだ。
絶好の月見のできる高台にあるアパートの一室には、パステルと猫と杉浦康平デザインの世界幻想文学大系と、イタリア製のプラスチックの袖机とベルギーのシュールレアリスト、ポール・デルヴォの汽車の絵が、それはそれは宇宙の秘密が凝縮されているように配置されていた。 
僕がまがりなりにも幻想文学者として評価されるようであるなら、それはその時そこですべてもらった物語なのである。るうにいさんからは、あえて一つだけあげるなら、「月」の見方を教えてもらった。 
トリスタン・ツアラのダダ宣言が睡眠薬がわりになったのも、たぶんこの時からだ。 
僕はダダの明るさとリズムが好きだ。 
ダダは純粋無垢の微生物 ダダは生活難に反対する ダダ 思想開発株式会社 (中略)
ダダは未来に反対する。ダダは死んだ。ダダは白痴だ。ダダ万歳。ダダは文学の流派にあらず、叫べ
(弱き恋と苦き恋について のダダ宣言)  
大多数の人と同じように、シュールにもダダにもその後逢うこともすれ違うこともなかった。
工作舎を振り出しにした僕の二十代は上がりのない双六のようで、射手座という運命を甘受してただ矢のように飛び続けるしかなかった。しかも壊れた矢だった。 
やがて折れた矢も、職業も住まいも家族も友人もすべて一周して、生まれた場所に突きささり、今度は谷になり屋を構えた。33の出来事だった。 
店屋は僕にとってのライブステージである。 
雑誌「宇宙船」に広告を載せたのをきっかけに来てくれた怪獣玩具派のお客さんのリクエストに応える形で、店は「星を売る店」から「怪獣サロン」の様相になってきた。 
ウルトラQ第一世代でありすぎたために、怪獣玩具を目撃も手にもしなかった昭和二十九年生まれの僕には、彼らがひどく新鮮なオブジェで、退屈な昼下がりに六年生の時に見損なったQやマンやセブンを、店のビデオで堂々と仕事として見ることができるのが、気持ち良い元気回復作業だった。 
なにしろ僕は、「キンゴジ」やら「モスゴジ」やらは新種の原子モデル名にひびいたし、まして「メガロ」に関しては聞いたこともなく、コジラ映画に出てきたとあっては、まさしく超現実の世界であった。 
アンティックショップ・オーナーとしては、怪獣の名前と姿形を覚えるのが日課となってきた。刺激的であった。 
こうして超現実と現実が混じりあい、幻想と現実が解き放たれて、偶然と必然が何度も訪れて、過去と未来がリンクしだし、唯物的ではなく唯心的世界が店となり、商品となり、ある時は電話となり、客となって、ドアをたたくのであった。
その「空想」もそろそろ十年というサイクルを意識しだし、カタログを超えたフォト・エッセイ集『怪獣玩具の冒険』という決算書を出そうとしていた4月後半、久しぶりにまりの・るうにいさんから幻想鉱物画展のパーティの案内状が届いた。雑誌「夜想」で知られるペヨトル工房が企画した鉱物展の中の約4週間の催しだった。 
この日は満月で、やはり鉱石ラジオを出展していた小林健二夫妻、るうにいさん、平凡社コロナブックス編集長の美都さん、筑摩書房で小林さんの鉱石ラジオの本を担当している磯辺さんと神田の寿司屋で、午前様の二次会だった。 
それもこれも、神田と秋葉原のJRにはさまれた三角地帯にある「デルタ・ミラージュ」がパーティ会場だったせいだ。デルタ前の変電所には、この夜、大きな月がひっかかっていたらしい。 
デルタの不思議な磁力に感電した僕が何回目かに行った時、渋谷の画廊「ミラージュ」のオーナーでもある越生さんが、正真正銘のシュールリアリストを紹介してくれた。「神谷さんていってね、ちょうど素晴らしい怪獣の本を出したところなのよ」と僕のことを話してくれたので、冒険をさしあげた。
するとその紳士はこんな会話をした。
「僕もこういうのが好きでね」僕は意外さに驚いていたが、その紳士の口から次の言葉が出てくるとは思わなかった。
「君ね、ダダ星人とかブルトンとかいう怪獣を知ってるかい?」
「あれはね、昔テレビ局にいる友人から頼まれて、僕がつけた名前なんだ。」 
この紳士こそは誰あろう、あのアンドレ・ブルトンのシュールレアリズム宣言の翻訳者「巖谷國士」さんである。

[注文の多い鑑賞例]          
◎自己窃盗狂患者(トリスタン・ツアラ/ダダ宣言)                
◎僕ほど明瞭に、この黄昏が白を粉砕するのを見た者はいない。(同上)       
◎彼等は蒼穹に生きていたのだからな(リラダン/未来のイヴ)
◎手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いのように美しい(ロートレアモン/マルドロールの歌)
◎現実しか知らない?ならば死ね。(ニーチェ)
◎内在する必然が混沌の額に美しい薔薇を植え、「自然」の中心にそなわる意図が調和と喜びであることを打ち明けてくれている。 (エマソン/エマソン論文集)
[註]
(1)「シュールレアリズム」という表記が僕のイメージで、1970年代後半は「超現実主義」はこう訳されたはず。現在は「シュルレアリスム」。「リズム」という音感が大事だと思うが。北園克衛と西脇順三郎の主催した日本初の超現実主義誌「薔薇・魔術・学説」では「シュルレアリズム」だった。
(2)石神井にある早大高等学院のこと。このページを読んだラジオたんぱの石田氏の仲介で1999年冬に連絡が取れ、2000年三月に再会した。
(3)読売新聞社「タルホ・クラシックス」、潮出版「多留保集」、美術出版社「パステル飾画」で彼女の幻想画は見られる。

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