◆◆◆◆◆骨董魔術論◆◆◆◆◆

■ サ ロ ン の 陰 謀   

地上の生活にどこか違和感を憶えるとき、天使の羽を休めたくなる。まぁ、こういうことなのだろう。だから、サロンは酔うところではない。サロンは覚めるところなのである。   
★ サロンはどこにでも現れた。僕らが記憶するいちばん小さなサロンはたぶん縁台である。「お化け」というゴシックロマンと「花火大会」と「星座教室」という星への誘い、「縁台将棋」というメランコリーの鎮痛剤が、大きな大人の手によって、夏の涼しい夕方に実に大切に用意されていたのだった。   
★ サロンの名称は一定ではない。 
1970年代新宿が東京の《首都》でまだ熱気都市だった頃、サロンは「ロック喫茶」の名で呼ばれていた。 新宿厚生年金会館の歩道橋の下には「ソウルイート」があって、その名のとおり魂を食べられた何人もの家出高校生、学生運動家くずれ、アーチスト予備軍が漂着した。「ソウルイート」の雰囲気を音楽で表わすならば、プログレッシブ・ロックの王者「キングクリムゾンの宮殿」のようなメロディであった。 
渋谷道玄坂にはカレー屋「ムルギー」を挟んでウェストコースト派の「BYG」とブリティッシュ・トラッド系の「ブラックホーク」があった。ホークはおしゃべり厳禁の店なので、店に音楽を聴く以上のものを求める客たちは、地下一階でライブ演奏があり、二階には靴を脱いであがるBYGに集まった。ここは「風都市」*2であった。ここにも十八歳以下のいとけない風がたくさん吹き立っていた。 京都の「ダムハウス」、大阪の「ディラン」までヒッチハイクして流れていく風もあった。   
★ サロンは梁山泊である。 
いつ出るかも分からないと本屋さんにいわれた、正体を隠した奇妙な雑誌「遊」の第八号〈叛文学・非文学〉特集(1975年)に、稲垣足穂と北園克衛という僕の敬愛する作家と詩人が同時に出ているのをみて、訪ねていったのが版元「工作舎」で、はじめていったその日、赤い椅子をもらって帰ってきた。僕は二十歳をカウントしていた。 《編集》の扉とは、サロンのドアである。   
★ ダダイズムの発祥がチューリッヒのキャバレー・ボルテールというサロンで、そこにロシアのアナキスト・革命家バクーニンが同席していたとかの風説は、サロンのミュージックである。 そこには、日本の将棋道場や碁会所ほど 「こもった熱情」はなかった。 サロンには「地上へのサラリとした感情」が、別メニューであるようだ。   
★ サロンは出会わなければ、一生出会わない場所である。サロンへの招待状は「美しい必然」によって届けられる。
★ 白い食器       花       スプウン          春の午後3時
    白い             白い             赤い 
(北園克衛/白のアルバムより)    
★ 「永遠の遠国のうた」の歌手あがた森魚さんの秘書だった寺嶋由起さんが、デルタ・ミラージュの巫女だった。
★ デルタの地理は判りにくい。その点で、デルタは優秀なサロンである。   
★ 店の外にでて、ものの五分も歩かないうちに、一大エレクトリック・シティ秋葉原に移動できる「意外性」がある。いきなり50ホンの現代が目と耳に飛び込んでくる。これもサロン効果の一例だ。これほど虚をつく広告看板はない。   
★ つまり「至るところにあってどこにも見えない彼方の故郷の世界の夢」を得点したければ、「ファーでなくニアーであわせろ」というのがサロンの開幕のテクニックなのだ。    
★ カフェが開いた途端に月が上る(マリネッティ)というけれど、サロンの開演にスイッチを合わせるように夜空に登場する月には、二十世紀になってNASAが発見した月など月の一部でしかないと改めて思わせるほどの「神サビタ月」が、宇宙曲面上に引っ掛かっていて欲しい。   
★ 夏の宵のデルタの前からなら一人一度だけ観察が可能だった。 誰もいないオフィスビル街から、JRの電車越しに見える月は、理論上変電所の微細なモーター音に誘導された、それは《或る局面の月》であったが、それは同時に《或る全体の月》でもあった。   
★ 事実上、「空想の月」でもあった。   
★ 1997年の夏の一ヵ月間、僕は店を閉めて、デルタ・ミラージュを占拠した。「空想雑貨の冒険展」の始まり始まり。   
★ 交通/都営地下鉄岩本町または地下鉄銀座線神田6番出口→靖国通り沿いJRガード側「しゃぶしゃぶパーティ」曲がる→角から三軒目のビルの四階(入口が引っ込んでいるので注意して下さい!)   
★ ビルの入口には、背もたれがシルバーで、全体がシャーベットグリーンのアートチェアが二脚おいてあり、エレベーター待ち用にテレビがセットされていた。   
★ エレベーターを降りた人は、まず、そこで二つに分かれる。場違いだと気づいてエレベーターにもどる人と、そのままイギリスから持ってきた古いホテルの曲面ガラスでできた重厚な玄関扉をくぐる人とに。   
★ ヨーロッパ風のカフェ・サロンが、アンティックの椅子・机・照明器具の花園に咲いている。本棚には、「古書肆マルドロール」が厳選した書が、薔薇の垣根を造っている。   
★ 澁沢龍彦の書斎のようだ。   
★ カフェの反対側がギャラリーになっている。 写真展を中心に、ダンスパフォーマンスが組まれたり、シュールレアリズム映像作家の上映会も行なわれた。 銀幕にメリエスの「不可能世界の旅」を見ながら、バーカウンターで上等な洋式蒸留酒を口にするのも悪くはない。
★ ギャラリー・スペースがそのまま《店》になるのは、前代未聞の事件だった。春に出版した僕の本「怪獣玩具の冒険」の写真展という当初の企画が、僕の店まるごと移動の「空想雑貨の冒険展」にステップアップするのは、いかにも空想らしい飛躍だった。   
★ 店の物質と精神を全部披露してなおかつ遊ぶという困難な建築的要請は、設計・施工・インテリアならびに現場監督に、「理工系の書家」で「空間設計士」の門馬嗣不夫くんに頼んだ。   
★ 搬入の時間は二日間なかった。店のカウンターは新たに現場で作り、ペンキを塗った。商品ディスプレーは博物館の従来の展示方法に異議をとなえ、なるべく触ってもらえるように、ガラスケースに閉じこめないで、大切なものだけをアクリル板で仕切った。 畳を用意したのも、解放感を演出したかったためなのだ。この畳の上で、自然発生的にメンコ大会が行なわれたのも、忘れられないモダンな座興だった。   
★ 玩具、紙物、文房具、雑貨など一万点以上を大移動した最後の仕上げは、門馬くんの書だった。ギャラリーの入って正面の壁に、大きく明るい字で「空想」と心意気を入れてもらった。   
★ 展示会中の週末、「おもちゃ学校」と称して、毎回ゲストを呼んでトークショウをした。「怪獣博士」ぶりを語ってくれたアーチストの小林健二さん、粋人プラモデル史研究家の平野克巳さん、ガレージキットの流れを変えたメーカー「マーミット」の赤松さん、玩具組合からは事務局長の大石さんが駆けつけてくれて、おもちゃが本来願っているはずの楽しさや笑顔につつまれた時間を、エンジョイした。対談のビデオ撮影は、ガメラ映画のメイキングなども担当した板倉剛彦さんにお願いした。   
★ デルタへ出勤すると、朝一番に2メートルもあるゴジラの風船人形をふくらました。デコラティブな長椅子で濃いコーヒーを飲んだ。 夜は十時まで。《幼子の偶然と賢者の必然》の出会いに一喜一憂し、僕はおもちゃの神様から与えられた最高の夏の中にいた。   
★ サロンは合理的ではない。サロンは経済的でもない。優秀なサロンは、マーケッティングできない。   
★ サロンは長生きできない。サロンはサロンを体験した人々を新しいサロンにすることで、サロンの最後の役割をはたし、永遠の夢の中に生きる。   
★ デルタ・ミラージュは僕のあと、虚無への供物の作家「中井英夫文学展」などを開き、花弁を大きく開花させると今度は一気に夜の終息に向かった……      

[注文の多い鑑賞例]
●わたしたちは生まれながらに魔法を知っている。旋風を、山火事を、ほうき星を内部に持って生まれてくる。鳥といっしょに歌うことができ、雲を読むことができ、砂の粒で運命を知ることができる者として生まれてくる。(ロバート・マキャモン/少年時代)
●怪獣と永遠を思い、BARで一杯ひっかけよう(空想雑貨の冒険展の案内状より)
●世俗と断ち因習を脱し名利を離れて虚空を吹きまくる(九鬼周造/風流に関する一考察)

[註](1)「風都市」という名前の音楽事務所が存在した。・・風都市の最初の活動は、東京は渋谷百軒店にオープンした(1971年4月28日)「BYG」というライヴ・スポットのブッキングだった。「BYG」は、当時東京では数少ないロックを聴かせる店で、昼間は一、二階でレコード、夜は地下でライヴというシステムをとっていた。ライヴのブッキングが全面的に風都市に任されたため、その出し物は異色で、はっぴいえんどをはじめ、あがた森魚、はちみつぱい、ぱふ、DEW、乱魔堂、小坂忠などが《メニュー》の中心だった。(日本ロック大系/白夜書房より)

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