◆◆◆◆◆骨董魔術論◆◆◆◆◆◆

■ ニ ュ ー ト リ ノ の 鑑 定   

鑑定とは「見立てること」。見立てることとは、自分の器量の証明書を首からさげるようなことである。逃げることはできない。推理とは違って、もっと身に降り掛かってくることだ。
俗に、世の中は盲千人、目明き千人というが、これは誉めすぎで、それほど美の覚者がいるわけでもない。
見立てるとは、ミすなわち「ものの美」との解釈からすれば「美を立てる」と異字同訓である。 自在に見立てることのできる美の覚者は、権威によらず、知識の量によらず、深く穏やかに歩まなければならない。 
旧玩も子供時代の記憶に頼って、自分だけの見聞きした狭い記憶を振りかざし、あたかも真実のように分類する者や、制作会社や配給会社に関連する利権主義者がのべつまくなくトップとして登場するようでは、汚れて浅いのである。要するにアンティックトーイの世界では、悲しいかな、まだ「美」が発見されていないのである。 
美が発見されたという報告を僕は未だ受け取ってはいない。 
「パニポート」の故坂本侑司さん*1の一例を特例として。 
本来、趣味の道とは、制限のある道に他ならない。趣味の門の門とは、すべてのマニアを受け入れるわけではないという意味の門である。急ぎすぎないようにという制限速度も、ダンディズムを基調とした交通ルールもきちんと存在する。道とは制限である。むやみやたらと人をいれない。しかも僕らが行くのは、古道である。すくなくとも二十年やそこら前の。あるいはそれ以上の。 
だから迷子になることもある。ではガイドに誰を頼むか。それが問題になる。 
アンティックといういにしえの道を連れ添うガイドには、千利休、岡倉天心を推薦したい。古すぎると心配はご無用だ。利休、天心のものを見る目は千年を超えている。 
茶の道もまた、いにしえへと列なる古道の一つであり、整備された道なのだ。利休は関白に対して死をもって守り高めようとしたし、天心はあまり知られていないが、野に下ることによってこの道をさらに美しく引き締めようとした。 
このようなことで、玩具はすでに浅いお茶なのである。 
もっとも玩具がもっぱら権威欲の所有に属して美に関係ないとするならば、僕らには美しさを味わうための茶の道も何もかもが不要である。不必要なのは自分の手元に有るか無いかという二元論の無限地獄であり、歪曲化されたものの価値観、遊びと称する真剣みの体たらく、自分の好きなことすら自己主張できない人生そのものへの無気力さ、アイデンティティとエゴをすり替えたおたくコレクターの物質欲なのである。 
利休、天心のダンディズムは地上での生活を全うするための必須アイテムなのだ。ロマンティシズムに生きるためには、ダンディズムに死ななければならない。 僕らはもっと空想することが肝心だ。ものについて騙されないようにする必要がある。 
ものについて知るには、飛騨高山へ飛ぶ必要がある。横山光輝原作のSF忍者もの「仮面の忍者赤影」の故郷へ。 千年以上の歴史を刻む全国屈指の鉛と亜鉛を産出していた神岡鉱山の廃坑後を利用して、現代科学は「秘密基地」*2を作り上げた。部外者は立ち入りすることのできない、地下約千メートルに。地上の喧騒を一切シャットアウトしようとして。驚くべきことに、純水という極めて純度の高いとされる特殊な水を五万トンも用意して、誤差なく正確に、常にやってくる「宇宙からの光」を待ち構え……。  
科学は執拗に物質と宇宙の正体を説き明かそうとして、分析して、目に見える証拠品の提出にこだわり、ついに宇宙の主催者の地位から神を引きずり堕ろし、宇宙の存在を科学の名の基に証明しようとした途端の二十世紀初頭、たちまち袋小路にはいってしまった。 
そこにはハイゼンベルグの「不確定性原理」という摩訶不思議なドラマが待ちうけていたのだった。こんどこそ究極の極微物質に思われた素粒子が手に負えない振る舞いをするから。物体の位置を捕らえようとすると運動量(つまり速度)がわからなくなる。運動量を精密に測ろうとすると、位置がわからなくなる。観測者が観測対象になんらかの影響を及ぼすことが問題となってきた。科学の最も得意とする観点「客観性」にゆらぎが生じてきた。 
その結果、科学者は科学の手練手管をもってしても底をのぞかせない自然の強固さに愕然とし、そのまま自然は「あるがままの一つながりの自然」として承認していこうとする方向と、いや観測の仕方自体に問題があるのであって、自然は科学の手で制圧できるのだと考える者と二派に分かれた。 
そして最近、地底の見張り番「大型観測装置スーパーカミオカンデ」は、太陽などから飛来する質量ゼロといわれる忍者のようなニュートリノ(中性微子)に質量を観測した。この結果、もっと重いニュートリノも存在しそうだということである……。 
科学が納得できる結論を出すのは、まだまだ当分先のようだ。まるで科学的結論がその時代その世紀ごとに流行のように推移していくようだ。科学が結論を出し渋っているときでも人間の生活は日々営まれ、四季は巡っていく。嘘のような話だ。 
量子力学はある種の色眼鏡でしか世界をみることができないことを示唆してくれている。 
わが骨董の世界は早くからそうだった。骨董の世界の純粋絶対は「価格」や「権威者による鑑定」ではなく、数寄者の主観が絶対なのだ。アンティックの世界に「客観性」はない。客観性を云々したいならば、その発言者がよその店の価格を参考にして、或いは雑誌やテレビの価格を参考にして、自分に都合よく高く売りたいだけの男か、見る目のない低次元の名ばかりの偽者かのどちらかだろう。 
僕らはまるでニュートリノのお山に登っていくようだ。
利休、天心のガイドはいるものの、山のガイドはガイドであって僕らは登山家であるので、いずれ彼らとは離れ一人で登っていかなければならないだろう。 
それでも途中の景色だけ眺めていても、さぞ素敵だろう。どんな茶碗でも織部以上に味わえ、明治の金彩のブリキ玩具は、雨にうたれた縄文杉の巨木のようにはかない枝を張るかも知れない。
きっと満天の星は茶碗の中に現われるだろう。
登りゆくその時、僕らは怪獣ソフトビニール玩具のように、小さな生命をもつのかも知れない。
たとえ頂上に立つことができなかろうと。
「お宝鑑定」に異議を申し放つとするならば、その鑑定がはたして人間込みの値段かどうか伺ってみたいものだが、その結論はすでについているだろう。
戦後すぐのブリキ玩具に使われたブリキの板が、進駐軍の捨てた缶詰であったことを事情通なら知っていても、家庭用の製麺機のロールで延ばし、ドラム缶に苛性ソーダを入れて煮沸して、缶詰の印刷を消して再利用した苦労まではわからないだろう。 プラモデルの部品を取り囲む枠ランナーが、発明であり、製品チェックのためのものだということを知る者は、稀だろう。ランナーを作れば材料費は余計にかかるのに。そしてプラモデル普及のために、そのランナーの権利を放棄した事実は、誰も知らないだろう。マルサン商店の石田実社長が、その当人だと知ればまた新たな感慨もうむだろう。
例えば玩具は特許の権利放棄という形で玩具業界全体の幸福のために、一人一人が奉仕してきたといえる。
「類推の山」*3の著者はこう語っている。
・・・世界の奥義は三つの道を通ってやってきた。第一はプラトンの対話編にはまだ輝いていたものではあるが、実用主義へと墜ちた。第二はカバラ、ヘルメス、占星術師たちの道であるが、これも裏切りとともに墜ちた。第三の道こそは、詩の道である。ある神秘な血縁関係の鎖にむすばれた…… 
シュールリアリズム文学史上「類推の山」は最も高くそびえている。そしてその話の内容どおり骨董世界もなかなか見ることができない。遥かに高く遠く不可視のままに、そびえている。 
その類推の山を探険にいく物語は、そのままわが骨董宇宙を象徴するニュートリノの山と同訓異字の物語である。 
登らなければならない。
もちろん登るのは、あなた自身である。


[注文の多い鑑賞例]
●一般的に、外部の客観的世界のリアリティのみが、科学的研究のしっかりした基礎を与えると信じられている。しかし、客観・・主観の区別は、誤解と虚偽から生まれた幻想なのである。(エックルズ卿/大脳研究者)
●詩の天才の試金石になり、尺度となるものは、俗事のうちに詩を読みとる力(エマソン)
●「梅花一宇」を会得なき人はすきの道には入りがたし(珠光/茶湯の開山)
●綺麗さび(小堀遠州)
●生という概念は、自己享楽ということの、ある絶対性を含んでいる。(ホワイトヘッド)

[註]
(1)「古伊万里にはブリキ玩具と同一の美がある。」この坂本氏の言葉ひとつとってもアンティック業界の変質は明らかだろう。一般的に有名な北原コレクションよりも坂本コレクションの徹底ぶりに軍配をあげる通は多い。戦前物のブリキ玩具の第一人者である。
(2)直径39メートル、高さ42メートルの円筒形タンクを造り、光電子増倍菅一万千二百本取り付けている。東京大学宇宙線研究所の運営。地下の巨大な水槽に《5万トンの眠る水》とは、すごいイメージだ。
(3)散逸した作家「ルネ・ドーマル」。巌谷國士さんの訳で河出文庫で読める。帯のコピーは「魔術的冒険小説」。 


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