◆◆◆◆◆骨董魔術論◆◆◆◆◆

■ 前 浅 草 ・ 後 浅 草   

国際劇場*1の裏手、合羽橋商店街の入口にある金竜小学校に通っていたのは、東京オリンピックの頃。月光仮面や赤胴鈴之助や伊賀の影丸が横丁のヒーローで、昭和通りに都電が走っていて、国際通りは車がガラガラだった頃だ。
どじょうの飯田屋やカツカレー丼の河金は、同級生だったし、やくざの倅もいたし、在日の人もいたし、早くもテープレコーダーでクラシック音楽を聴いてるサンダーバード狂もいた。道端でぶっ倒れている浮浪者もいたし、映画館のピンク看板はなによりもけばけばしかったし、ヘビ女の見せ物小屋はあったし、ガマの油うりは口上をまくしたてて、気をひこうとしていた。
親父の機嫌がいい時には、ナガシマでお子さまランチか、三州屋ですき焼きのコースが多かった。
祭りの日は伯母が来て、お土産にジローのホットドックを持ってきてくれるのが、楽しみだった。
お金があれば、もんじゃかカステラのくずかおでんを買って食べ、紙芝居を遠くからただで見、自転車で少し離れた公園まで遠征し、大きな滑り台を頭から滑ってみたり、世界一周と称して学校の塀をいちども下の地面へ降りずにどこまでまわれるか友達と競ったり、およそ漫画「オバケのQ太郎」に出てくる正ちゃんのような平和な季節だった。
五年生になると家庭教師がつき、少年少女世界の名作文学全55巻を読書体験したことを除けば、日曜野球もしない、友達が遊ぶ間に勉強するはかせくんを余儀なくされていた。
東京タワー下の私立中学へ入ったことは、浅草との距離がひろがったことを意味していた。三社祭りは試験の最中だったし、僕の同級生のほとんどは地域の中学へ進学していったから。
ボブ・ディランのライク・ア・ローリングストーンや岡林信康のLP「見るまえに跳べ」を教科書のようにして、暗記するように聴いた高校生の頃になると、浅草の伝統はまっさきに罷免するべきものになる。
しかし大学へも行かずそのまま「人生の大学」のほうへ行ってしまった僕が、なにがきっかけで始めたのか忘れてしまったが、たぶんありあまる憂欝な時間を有効に過ごす絶妙手として「将棋」に魅せられていったり、家出したその後仲直りした親父と二人で「将棋クラブ」に行ったりしたことなどを思えば、どこかで伝統に帰依する下地ができていたような気がする。
東京郊外の福生の通称ハウスで結婚生活を始め、毎日FENからもれる音楽が手ぢかにあり、富士山が見え、玉川上水の静かできれいな水が流れれば、いつかはどこかで伝統の河に合流することを暗示している。
稲垣足穂やロード・ダンセイニの書棚に、やがて将棋年鑑と岡倉天心の茶の本と出口王仁三郎の創作茶碗の載った骨董美術工芸誌 「蕾」創刊号と「物理学のタオ」として一部翻訳された「タオ自然学」が掲載された雑誌メディテーションが並んだ。
反発が大きかった分、伝統が汚れて見えた。たぶん浅草に居続けたら、かえって伝統の良い面がわからなかったことだろう。
三代目の江戸っ子で浅草っ子の有資格者であった僕が、三十を過ぎ、商売を開始すると、そこには待っていたかのように浅草という伝統的で魔術的な磁場が分析と解釈と証明と再現とを要求し、骨董屋の店先から入ってきて、おもちゃという形で力を顕わしてきた。
浅草の歴史は江戸よりも古い。
平安時代末期には、下総への街道、奥州への街道の宿駅として重要な要地となりはじめる。「伊勢物語」の業平の言問いの故事*2にも、隅田川浅草あたりのことは出てくるが、由来では七世紀初め、漁師が隅田川より引き上げた観音像を浅草寺の本尊としたことに始まる。
平将門の乱が平定された後(942年)安房守・平公雅が、祈願し五門四面の伽藍を作った話もある。しかしこの門前町が相当発展した形態をとるようになったのは小田原北条氏の時代で、市も開かれるようになっていたらしい。
……浅草寺の草創が縁起に見える推古時代既に浅草がデルタ地帯になっていたことは、本堂後方の古墳から明治二年に石棺のでたことや、鳥越神社の境内からワラビ手の太刀やマガタマ等の出土は、古墳時代にはもう州が出来ていて、上野台や湯島台方面からだんだん人々が移り住むようになり、ようやく集落が形成されたものと思ってよい。
古瓦の如きも奈良朝末期から、平安期、鎌倉期、室町期と各時代の出土瓦は注目され、浅草というところが、観音の信仰を中心にして発達した集落であって、一面大東京発祥の地と言ってもあえて過言ではないであろう。
だから常に文化の先端を歩いて来たのである。
藤原末期には立派な工匠もいたし、室町時代にもいたことが文献に見えるから、鎌倉時代を通して相続されていたかも知れない。
江戸時代にもおおくの芸能人や、庶民の生活を潤す品々が浅草から生まれている。……
川端康成と並び浅草風俗小説の隆盛時代を作った高見順監修の昭和三十年発行のアンソロジー「浅草・・・その黄金時代のはなし」の中で、さらに浅草寺僧侶網野宥俊氏はこんな予言も残している。
……浅草だけは浅草の文化史を反省してみなければ、ほんとうの浅草は生まれてこないのである。……             
江戸以前の前浅草は、江戸文化の華浅草をすでに受胎していた。
徳川家康の江戸入府以来、神田山を切り崩して神田川を外濠として流すなど江戸の町の開発が始まった。こうして人口の集中がおき、門前町として発達していた浅草は、江戸と町つづきとなる。
新しい町は新しい気質を生んだ。ひとつは花川戸の町奴(人足を集める人入れ稼業)藩随院長兵衛に広く代表される啖呵切りの男伊達の気風。もうひとつ忘れてはならないのが、米蔵の立ち並ぶ前という羽振りのよさからついた土地名をもつ商人、蔵前の旦那衆の気前。豪気な遊び人でもある彼らは、気前のよさから、蔵前風の侠気(おとこぎ)ともいわれ、江戸っ子の典型とされた。
浅草が玩具の故郷であり、玩具の一大王国を築きあげたのも、出発は浅草寺門前町の土産品的郷土玩具としてであり、蔵前旦那衆の資本力と遊び心によるものだった。
女の子にはミルク飲み人形、男の子にはラジコンの発明で名高い増田屋斎藤貿易(増田屋コーポレーション)も、戦前の大盟主倉持商店も、もちろん江戸の出。
玩具御三家、増田屋、鉄人28号のブリキ玩具で有名な野村トーイ、ミニカーの米沢は蔵前のメインストリートにあった。
戦後育ちの個性派、日本初のプラモデルの創始者マルサン商店も、戦略家山科直治ひきいる萬代屋(バンダイ)も大浅草にあったし、浅草でなければならなかった。
おもちゃの生産の下請けは、浅草から一本の道路、水戸街道で下った地点、川むこうにあった。ブリキからセルロイド、ソフトビニールなどのおもちゃの身体、ゼンマイ、ギア、モーターボックスなどのおもちゃの内蔵部分から彩色などの外装部分まで、墨田区から葛飾区のあたりに集中していた。
メンコやブロマイド屋はこれも浅草の国際通りを下った千住界隈に集中していて、この紙物屋がプラモデル製造に転じていったのは、あまり知られていない。城や兜で知られる童友社は、まぼろし探偵のブロマイドを作っていたし、キングモグラスなどのSFもので人気だった緑商会も前身は草野商会という紙製玩具屋だった。
おもちゃの箱絵の印刷は、台東区界隈の玩具紙器印刷屋の皆さんだった。
この複合的パノラマの頂点こそは、地方問屋、メーカーの上に君臨する製造問屋といわれる旦那衆の姿だった。製問は基本的に資金を援助して下請けにおもちゃを作らせ、製問の商標で売ってあげる。
このいわば旦那主義が、おもちゃ社会のヒエラルキーを作り、浅草主導の東京価格と地方価格という二本立ての差を生み、下請けを善い意味の義理と人情で保護し、絶対性を保っていくのだ。トラック輸送の本格化する1960年代の終着駅まで。
玩具人は、浅草に出て、浅草で商売を始めるか、浅草の商売と関わるかした時、既に浅草人となる。浅草人の「新しもの好きで見栄っぱり」な気質はおもちゃ屋にとっての最高の身だしなみとなり、戦前戦後をとおしての日本有数の外貨獲得産業たる玩具商売の活力となっていったのだろう。
またこんな異説も一興かもしれぬ。
江戸城の鬼門にあたる浅草こそ、鬼の身体を移植した金太郎人形を参考にしたヒーローキャラクター人形を作る地にふさわしいと。
ちなみにヒーローものの元祖、空飛ぶ鉄腕アトムの製造会社は、浅草ナンバーワンという気概をロゴマークにしたA1こと、浅草玩具である。
 
[注文の多い鑑賞例]
●古人の跡をもとめず、古人のもとめたる所をもとめよ。風雅もまたこれに同じ。(松尾芭蕉)
●ただ修業をしているだけでは、修業にならない。(柳家金語楼)
●私は絵コンテなんていいかげんなものは描かない。一発勝負だっていう〜の。(谷岡ヤスジ)
●「いき」には、「江戸の意地張り」「辰巳の侠骨」がなければならない。(九鬼周造/「いき」の構造)
●現今、名人の気分を骨を折って 研究するものが実に少ないのは、誠に嘆かわしいことである。われわれは、手のつけようのない無知のために、この造作のない礼儀を尽くすことをいとう。こうして、眼前に広げられた美の饗応にもあずからないことがしばしばある。名人にはいつでもごちそうの用意があるが、われわれはただみずからが味わう力がないために飢えている。(岡倉天心/茶の本)
[註]
(1)松竹歌劇団の本拠地。1937年開場、1982年閉場。現在は浅草ビューホテルが建つ。蔵前国技館と国際劇場の《消去》が浅草の寿命を縮めた気がしてならない。子供心にはサーカスの大テントのように思っていた。
(2)「名にしおはばいざ言問はむ都鳥」より地名がついた。隅田川の言問橋、言問通りに名前が残る。

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