■デカ過ぎたマジンガーZ
マジンガーと僕
この写真は私が1歳のころ、
静岡県下田市の社宅で撮影されたものだと思います。
私は1973年8月3日生まれ、現在26歳ですから、1974年ころの写真です。
生まれてから2歳のころまで伊豆の下田に住んでいましたが、
その期間の記憶はありません。
ただ、このマジンガーZは私が物心つくころまで残っていたので、
ハッキリ覚えています。


多分、5〜6歳のころだと思いますが、子供心に気になったのが、
写真でわかる通り“手”がないこと。
この“不完全さ”が何か私の心にひっかかる感じがしました。


それから、とにかくデカイ。子供が手にとって遊ぶには、
せいぜい20cmくらいまでのサイズが適当でしょう。
だから当時家にあった数あるおもちゃ(フィギュア)の中で、
私のなかでは不人気だったような気がします。


あと、写真をよく見ていただくと判りますが、足の裏に車輪がついています。
ですからこの車輪を利用して
(子供にとっては)巨大なマジンガーZをブンブン畳の上を走らせたはずです。


結局、
手荒い扱いを受けたマジンガーZは
最終的に上半身と下半身が分離してしまいました。
それはそれはかなり悲しい姿になってしまい、
更に私から忘れられた存在になってしましました。
あと頭の部分も取れてしまい、
“生首”状態になったはずです。


そうなると大人から見れば、単なる“ゴミ”ですから、
自然の流れで捨てられてしまいました。


あまりよい印象を持たなかった巨大なマジンガーZですが、
この写真を見る限り1歳当時の私はかなり嬉しそうな表情をしています。
それに私の父がわざわざ写真を撮るくらいですから、
実は当時、相当お気に入りだったのかもしれません。
現在、我が家にいたマジンガーZはこの1枚の写真でしか見ることが出来ません。


余談ですが、この写真を撮ったカメラ「ニコン・NIKOMAT(ニコマット)」
(日本のカメラを代表するニコン“F”シリーズの廉価版)は
5年程前から私が使用しています。当然フル・マニュアルです(笑)。


▲石田浩(東京都・ラジオたんぱ勤務・1973年生まれ)



■ごっこ遊びとおもちゃの思い出
小さい頃、私は店を持っていた。その名も「千代店」。
私は姉と二人姉妹だが、姉は姉で「美希店」という店を経営していて、
お互いに持ちつ持たれつ、たった二軒の商店街の
静かな繁栄を楽しんでいた。


通貨は小さなぺらぺらの紙だったけれど、時には喧嘩の種に
もなるくらい私たちの間では重大な意味を持っていた。
お金以外にも各種クーポンを先を
競って発行し、たった一人の顧客の関心を引きつけるべく、様々な工夫をした。


例えば千代店の「おんぶ券」というクーポンをお客様がご利用の際には、
小さな子供ながら健気に
姉をある部屋からある部屋へふらふらしながら運んだりもした。


千代店の主な売り物はお菓子だった。
そして店経営のかげでは、店長を支えるおもちゃたちが大活躍していた。
広告作りのためのタイプライター、
小さなホットケーキが焼けるオーブン、
ポップコーンを作るマシン、アルミホイルでお皿を製造するマシーン、
ビーズを自動的に糸に通すマシーンなどなど。
どれも実用品のミニチュアといったもので、私に
とって大人社会への憧れの象徴でもあった。


これらの設備投資のチャンスはめったに巡ってこないだけに毎回真剣だった。
一番のチャンスは年に一回のクリスマス。
夢中になっておもちゃの各種ちらしを検討し、慎重に結論を下して、サンタさんにお手紙を書いた。


ある時は小さな洗濯機や掃除機にまで手を伸ばしかけたけれど、
白熱中の一人会議をのぞいた「サンタさん」に「それはホンモノを貸してあげるからやめたら。」
と言われて諦めたりした。


最もお気に入りのおもちゃは、ピンクの小さなタイプライターだった。
カーボンをそれぞれの文字型(カタカナ)で押しつけて印字するもので、
ガチャガチャとダイヤルを回す手間ばかりかかるかわりに、
とんでもなく文字の不揃いな見栄えのしない仕上がりしか期待できなかった。


それでも活字で「値段表」などを掲げることが嬉しくて、
この機械を愛用していた。
打ち方が不均一なので、圧が足りなくて薄い文字や上下に大きくズレて消えた
文字がたくさんあったけれど、それをせっせとボールペンで丁寧に修正しては、胸をはっ
て店頭に張り出していた。


このタイプライターで、たった一人のお客様へのお礼状、陳謝状、アンケートなど
いろいろなものを作成した。


最も印象的だったのは、「チヨテンニツイテノゴイケンヲオキカセクダサイ」
というアンケートに
お客様が「ほんとによくしてもらって悪いなぁと思うくらいです」と書いてくれたこと。


普段は喧嘩ばかりの姉妹だったが、
ひとたび相手が大事なお店の顧客になると、
それぞれが真心を込めて対応した。
特に私は顧客サービスに努めていたので、それが優しい言葉で認められたことが何より嬉しかった。
子供心にホロリとくるくらい感激してしまったのを覚えている。


ポップコーンを作る機械も好きだった。
これは小さなトラックの形をしていて、荷台の部分に電熱板が取り付けいあり、
その上にコーンを入れて蓋をし、しばしかき混ぜながら
加熱すると、ポンポンとはじけてやがて荷台がポップコーンでいっぱいになるというマシーンだ。
でき上がりをホカホカのまま取り出すには、
砂をトラックから下ろす時のように荷台を後ろに傾けてザザッーとお皿に移す。
このおもちゃに関しては、味の良し悪しよりもプロセスが楽しくって、
少し成長して本物のお鍋で調理できるようになってからも時々
わざわざ使ってしまうほどに気に入っていた。


それからアルミホイルでお皿を作るマシーン。
これもよくできたおもちゃだった。千代店では「銀の皿」と呼んでいたこのお皿は、
わが店のイチオシ商品だった。
皿のままでも販売したが、
皿にお菓子などを入れてお盆にいくつも並べて売ったりもした。
(実際はお金のやりとりの前に姉と一緒にパクパク食べてしまってあまり商売にならなかった。)


まず、マシーンの台に四角いアルミ箔をはさんでカッターのついたハンドルを回すと
まん丸のアルミ箔がくり抜かれる。
それを隣の型の部分にセットしてガチャンと上から押す
とあっというまにお皿が出来上がる。この型の部分が何通りかあって、様々なお皿をプレ
スして作ることができた。
お弁当箱に入れて使う小さな銀の皿が市販されているが、
それと似たものがアルミホイルを材料に自分で次々に作れる、
それが嬉しかった。
時間のある時にたくさん作りためて重ねておき、
在庫として倉庫がわりの箱に大切にしまったりしては大満足していた。


ところで私の店は、主に自分の部屋を店舗としていたが、
屋台のように移動することもあった。
初期には食卓の椅子を床に寝かせて、窓口替わりにしていた。
今やろうとしても思い出せないが、
当時はうまい具合に椅子の足と足の隙間などを利用して
そこから顔を出し、
「いらっしゃいませ!」とやっていた。
座席部分や背もたれが、
ちょうどカウンタ
ーや帳簿台やふきん掛けの役割を果たし、
椅子一個が快適なオフィスになっていた。


自分の部屋から千代店経営のための設備や事務用品をケースにまとめて運んできては、
食卓の下で開店し姉一人をターゲットにせつせと営業していた。


また時には店の活動が庭にまで及んだ。
それは商売というよりは
姉と二人の商店街の企画イベントのようなものだったが、
狭い庭をフル活用して冒険のように大胆に楽しんだ。
時には行き着く先々にメモがあり、そこに書かれた次の指示に従って駆け回った。


また、庭に敷いてあった小石の中からとびきり綺麗なものを王様と女王様として選びだし、
丁重に土に埋め、その宝の地図を残したりした。


今思うと、
都会のマンション暮らしから
田舎の一軒家に越してきて間もない頃の私たちは、
まだ外に友達も少なかったし、
新しい家の中や庭で遊ぶのが何より楽しかったのだと
思う。
そんな中で二つのお店はおおいに繁盛したのだった。


もう少し大きくなると、
請求書やレシートといった書類を姉から習い、
店経営が徐々にシステマチックになってきた。
実際に文房具屋に出向き、
コクヨの帳面シリーズなどの本格的なノートを物色して、
自分の店に適した書式のものを購入してきた時には
非常に誇らしい気分になったものだった。


そのうち姉がワープロをマスターし、
それで機械的な線であったがイラストを描けるようになった。
そこで早速、私の大好きなぬいぐるみのミュウちゃん(アザラシ)を
店のトレードマークとして起用し、
姉にイラストを依頼して特製名刺を作ったりもした。


お店ごっこは進化しながら長続きし、
やがて終わるともなく下火になった。
二つの年の差のせいか、
姉が次第にクールになって、私もやりがいを失ってしまったからだ。


とはいえお店経営の記憶はこの家と二人の心の中に息づいていて、
今でも押入れや引出しから当時の残骸が発掘されるたびに、
ふいに店長としての意識が頭をかすめたりする。
また姉に
CDや洋服を借りる時にも、
当時姉がレンタル業を主に経営していた影響で、
いまだに紙で作ったお金を支払いたいような微かな衝動にかられる。


私もいつのまにか四捨五入で三十路という歳になった。
来春には子供時代の想い出の染みついたこの家を出ることが決まっている。
名字は変わっても名前は一緒だから、
新しい家でも「千代店」経営を秘かに続行していこうと企んでいる。
いつか子供ができたら彼らを客にして営業を再開してみたい。


私のごっこ魂はまだまだ元気だ。


▲須之内千代(埼玉県・新米主婦・25歳)



■にくめないやつツインテール
子供の頃のおもちゃの思い出と言えば、やはり、
ソフトビニール人形のことが第一に思い浮かぶ。
恐らく、ソフトビニール人形の全盛期?に育ち、
一番に慣れ親しんだ、おもちゃだからであろう。


彼らには、凄い特徴があった。
ブリキ、電動玩具、超合金などと違って、オールマイティーなのだ。
何がオールマイティーかと言うと、遊ぶ場所を限定しなかった。
彼らは砂場でも、風呂場でも、はたまた乗物の中ででも遊べた。
つまり、いつでも子供と一緒の時間を過ごしていたことになる。


おはようから、おやすみまでの
子供のフリータイムに欠かすことの出来ない存在(おもちゃ)、
僕にとっては、それがソフトビニール人形だった。


そんなソフトビニール人形の中でも、お気に入りだったのが、
帰ってきたウルトラマンに登場した古代怪獣「ツインテール」。
トボけたような目つきで僕を見上げて、
いつも、二本の触手で「おいでおいで」をしていた。
何とも憎めない奴であり、かつ物凄く個性的な奴だった。


余談となるが、子供だった僕に「怪獣の中には人が入っているんだぞ」
と耳打ちして、夢見る?子供心をぶち壊してくれた大人がいた。


ペギラも、レッドキングも、エレキングも、アーストロンも、
み〜んな人間が入っているんだ、と冷めた気持ちとなった僕だが、
どっこい「ツインテール」だけは違っていた。


頭(下にあるけど)も無ければ、腕(触手はあるけど)も脚も無い、
どうやって人間が入っているのか、全く判らなかった。
あれこれと考えた挙句、「逆立ちして入っているんだ」と想ったのだ。
(ちなみに友人は、ゴジラの中に人間が二人入っていると信じていた。
二人目の人間は尻尾の中に入り、尻尾を動かしていると想っていた)


何とも不思議な魅力で一杯の「ツインテール」、TVや絵本で見た、
本物とそっくりなブルマァク(STサイズ)の「ツインテール」が
一番のお気に入りだった(でも、復刻は嫌いだ!)。
ちなみに僕の母親は、怪獣の名前で「ツインテール」だけは知っている。


それはそうと、彼らを買い求めたおもちゃ屋は、一軒も残っていない。
優しいおじちゃんとおばちゃんの居た店、
ちょっと触っただけでも怒鳴るオヤジの居た店、
値札をライターで炙って剥がす、火炙りオヤジの居た店、
どの店も個性があり、それぞれが不思議な、夢のある空間だった。
それらが消えてしまった現在、当時のおもちゃ達は、
町におもちゃ屋があった事を知っている、物言わぬ友達である。


天野 秀彦(あまの ひでひこ)
(東京都・31歳・システムエンジニア。)


■おもちゃの包み紙は懐かしい匂いがする
おもちゃを包んでもらう、包装紙の匂いが好きでした。
戦車やロボットやキューピーが、書いてある赤い包装紙でした。
その包装紙に包まれた、おもちゃを手渡されると
甘い匂いが、鼻をつきました。
おもちゃを買ってもらったうれしさと、その甘い匂いで
なんとも言えない気持ちになりました。
でも、やっぱり中にいる怪獣玩具が気になり、家に帰ると
ビリビリ破り捨ててしまい、怪獣と遊ぶのでした。


酒井 哲   31歳     会社員


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